苦痛を最小限に

Posted on 3月 3, 2012 in 動物, 映画/本/ドキュメンタリー, 生活 | 1 comment

肉をできるだけ避けた生活にして早14年ぐらい。
A Cow at My Tableというカナダのドキュメンタリー(ここで無料で見れます)を見て、それを決心したのですが、そのあとにも食べない理由というのは増えて、結果継続してよかった、と思う日々です。

動物は人間に対して言葉で文句を伝えることはできない。健康を害したり痛い目にあったり、拷問のような苦しみのあとに殺されることに、ただ動揺するだけ。
脳がより大きいくかしこいはずの人間は動物をいたわってあげなければならないと思う。←なんか小学生の文みたいなきれいごとだけど、本当にそう思うのだから仕方がない。
だから家畜として生まれてしまった動物にも、動物らしい飼育をして、殺すときは痛みや動揺は皆無で屠殺してほしい。
でもそれは動物好きな人間の願いであって、マクドナル○が言うように「安く安く」肉を用意しろと条件を言われる農家は、スペースもえさも世話も最小限に抑えて育てる、そうしれなければ農家もやっていけない。そうなると動物の健康や痛みに注意を払う飼育なんてできるわけがない。


Photo by Tommaso Ausili

人間は自分ではない他人に世話や屠殺をやってもらっているから食べているところが大きいと思う。そこにあるから惰性で食べている。
例えば、「この牛はあなたがこの先5年かけて食べる牛です。これがピストルです。さあ引き金を引いてください。」と言われて、動揺する牛の脳を打ち抜くことができる人が何人いるだろう。
ピストルで殺されるなら、まだましな方です。銃弾だって無料ではないので、それを節約するために銃など使わず、気も失っていないのに動脈切りの刑。心臓は動いていないと吊り上げても血が排出されないので、心臓は動いていてほしいのす。生きたまま首の動脈をかき切って、しばらく吊るすのです。
これはどう考えても生き地獄。
そんな感じで目の前で友達が殺されれば、次は自分かと動揺するわけですよ。

そういうことを知らずに、とりあえず「そこにあるから」食べている、というのは、「感謝している」とは言えません。

私がその牛だったら、「感謝」より、そういう扱いをして殺したことに対して「謝罪」してほしい。そういう扱いをされた時点で、感謝してないでしょ、と思う訳で、最後に口に入る人の「感謝」なんて、最後までどうでもいい、と思うわけです。

私は多少は転生を信じているので、そういった扱いを動物にしたら、次生まれ変わったら動物として産まれてそういう行為をされるのでは、思っています。カルマが回るというのも同じようなことでしょうか。はたまた、その動物が自分の愛する人の生まれ変わり(死んだおじいちゃんとか)だったら、どうするの?という想像をよくしてしまいます。

と言いつつ、海鮮は食べているのですが。

なので、私は勝手なことを言っています。矛盾しています。

とりえあず、自分の食べ物のために、その生き物を自分の手で殺せるか否か。
そこで私は線を引いています。

安い肉は一番気をつけてほしい。成長促進剤をたくさん打たれ(特にアメリカ牛ヤバイ!アメリカのは牛乳も避けた方がよいと思う)、運動もしていない、太陽の光も浴びてない、世話もきちんとされない、自分の糞尿にまみれてフラフラになっている動物たちの肉です。そんなものを食べて健康にいいと思いますか?「食べる人たちよ、感謝してくれてありがとう」と動物たちは思っていると思いますか?私だったら怨念残します。さきほど、最後に口に入る人なんて最後までどうでもいい、と書きましたが、怨念は最後食べた人まで届くように恨みます。はい、私、執念深いですヨ〜〜。

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  1. Paul Maccartney in Edmonton | エドモントン日記 - [...] 私たちも一時は、卵、牛乳、チーズなども消費しない、かなり完成度の高いベーガンを目指しました。が、日本や香港でそれをやるのは、ホント難しいなあと感じ、脱落してしまいました。でも肉だけは可能な限り食べないと決めて、早15年ぐらいかな。ポールもリンゴも70歳に届いたらしいですが、主食はブロコッリーで元気満々のようです。 ちなみに私たちが肉をやめようと思ったきっかけはこちらにリンクがあるドキュメンタリー。 [...]

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